26.次から次へと来る不況の波 |
西南戦争を震源とする松方デフレは、近藤家の自助努力により乗り切ることとなる。
しかし、時代は待たずに日清・日露戦争へと展開していく。
これが近藤家には追い風となる。日清戦争では、釜石鉱山田中製鉄所は稼働していたが、
八幡製鉄所が稼働するのは、日露戦争に入ってからである。
従って、近藤家はそれまでの間に今後のあり方を明確にしなくてはならない
というものがあったのは否定できない。
日清戦争では、それなりの賠償金を受けることができたが、日露戦争では領土が
広がっただけであり、戦費を補填するまでのものがなかった。
逆に領土が広がることにより、その維持費がかかるということが起きてくるのである。
このために、またもや不況に突入することとなる。
おそらく、明治40年代の不況は、近藤家の存続にとって不安材料であったに違いない。
7代目当主近藤寿一郎が書いた鉄山経営覚書がある。
これは、今日でいうところの経営計画書に近いものであるといえる。
その中で、日露戦争後の環境の中で鉄山経営の今後について、毎年のように考えをまとめ、
生き残りの道を探そうとしている。
明治40年に想定したものとしては、2ヶ所を継続するが、残りは廃業するとしている。
最終的には、大正10年に全てを廃業することになるのであるが、
何とかして生き残りの道はないかという必死の経営者の思考が見てとれるのである。
次回:2017年7月5日 掲載
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